7月5日「講演と映画の集い」 報告

CHC宮前眞理子共同代表理事による、
中央区女性ネットワーク・中央区主催『講演と映画の集い』での講演
(2014年7月5日開催)

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みなさま
こんにちは コレクティブハウスの提案をしております。
コレクティブハウジング社の宮前眞理子です。

 今日は私も見たかった 映画「みんなで一緒に暮らしたら」をこの後でみることになっておりますね。
私も、是非見たいとおもって、今日のお話をお引き受けしてしまいました。映画の内容と私の話しがどうつながるか、つながらないかは見てのお楽しみということで、とても心配ですが、前段で私たちの住まいの現状とコレクティブハウスという住まい方について お話させていただこうと思います。

 最初に、「どうしてこのような 提案をはじめたのか。」「何故必要とおもっているのか」というご質問があり、私がコレクティブハウスに出会った経緯もふくめ、すこしお話いたします。

 コレクティブハウスは世界ではスウェーデンやデンマークなど北欧の国ではじまり、オランダ、ドイツなどにもあります。 だれでも望めば、選択できる住まいの一つです。
その他では デンマークのスタイルが普及しているのが、アメリカ、カナダで 合計で百数十のプロジェクトがあります。
アジアでは 私たちが作った日本のコレクティブハウスが5つあるだけで、他の国にはありません。
しかし、韓国や、インドで研究がはじまっているという話も聞きます。
その他、オーストラリアとニュージーランドに3つぐらいハウスがあるようです。 こういう分布をお話しすると、コレクティブハウスが どこかの国の特殊な珍しい暮らし方でなく、世界の中でも 受け入れられているものである事がおわかりいただけると思います。

 日本での発端には、戦後職業婦人として結婚しないで生きる方がでてきて、日本には女性が一人でも快適に暮らせる住まいがない、ということがありました。
それまで女性は結婚するのが当然と考えられていたわけですから。
 そういう女性の住まいを考えようということで、女性の自立や解放の問題としての視点があったのです。 そのために世界の住まい調査をする中で、スウェーデンのコレクティブハウスがもっとも良いのではということで、日本にもこの住まいと暮らし方を広めようという研究会が1990年に 初めて調査報告書を出版して紹介しました。(アーバンコレクティブハウジングのすすめ )


 その後、この住まいは一人暮らしの女性だけでなく、子育てにも高齢者にもいいということで、是非、多様な人の住まいとして、普及しようという活動グループができました。
(1993〜1999年に活動したALCCというグループです)

 先日都議会で女性議員に向けたヤジがありました。 
 外国から 日本が非常に女性の人権擁護におくれている。という指摘がたくさんよせられ、ほんとに情けないなーと思ったのですが、日本の女性のおかれた位置は 第2次世界大戦までは ほぼ権利として人権がないという状態であったと言って良いと思います。
 1945年の敗戦後の新憲法によって、女性は初めて参政権、婚姻の自由、教育を受ける権利、職業選択の自由などを得たわけですが まだたった69年前のことです。 そのことを忘れてはいけないと思います。こうした権利がずーっとあったように思っている若い方も多いのですが、まだ最近、得たものなんです。
 婚姻や家族の形、住まいのかたち、暮らしとは何か そういうもの全てが、1945年を期に変わったのですが、意識はそんなに簡単に変わらないということが ヤジにもあらわれています。 

 今では女性はすごく大きいカオをしているとか言われたりしていますが、深層はそんなに簡単に変化しない、男性だけでなく 私達自身の意識の深層をも問うものだと思います。 もっと自分の尊厳、人の尊厳について認識しないといけないということで、そういう認識をきちんと持つことが生き方にも大きく影響します。
 コレクティブハウスでは個人の尊厳や人権の尊重は この暮らしの基本的な理念となっています。男女の差も、貧富の差も 地位や階級や人種も国籍も乗り越える暮らしなのです。

 日本の私たちの住まいについて少し大股に振り返ってみたいと思います。
皆様も ご自分の育った住まいや 一人のときや結婚して住んだ家や子育てしていたときの住まいなど。 一緒に 思い出していただければと思います。

 1945年。戦後焼け野原にともかく家を建てなければなりませんでした。
私の母は17歳で終戦を迎えましたが、空襲で住んでいた新大久保で焼けだされました。何もかも焼け、高台からは国会議事堂が見えたそうです。

 そして、新しい国へ経済成長をしていくことを目指し、農業などの1次産業でなく 2次産業、3次産業へと向かい、そういう成長を担う労働力が大量に都市に流れ込み、ますますそういう人々の住まいが必要になりました。
1955年 昭和30年 住宅公団が設立されています。

 そして、経済成長を支える家族の形として 核家族が形成され、企業戦士と専業主婦のカップルが子育てをする住まい=公団アパート が夢の暮らしになった1960年代、がきます。所得倍増計画というものも発表され、そして、東京オリンピックもありました。
「オリンピックをカラーテレビで見る賃貸マンション暮らしの核家族」というのがその頃の家族の 目指す姿でもありました。 
 さらなる経済成長をすすめる中、次第次第に持家政策という誘導で、分譲マンションや郊外の庭付き一戸建てを 皆が目指すという1970年代(昭和45年)がきます。夢のマイホームという言葉もありましたね。
この年、大阪万博もありました。 
皆さんは このころ だれと、どんな家 どんな地域にすんでいたでしょうか?


 資料として1973年(昭和48年)のお正月の朝日新聞(1月4日)に載った住宅双六をお配りしました。上田篤という建築学者が作成したものです。

これを少し説明しますと、『最初は田舎の大家族の家で生まれ、東京に勉学や、就職で出てきて、寮や木賃アパートに住む。 その後結婚を機にもう少し広い賃貸アパートに住み、子供が出来ると夢の公団アパートに申し込み当選! 子供が育つにつれ、マンションブームにのり賃貸マンションから、分譲マンションを所有、さらに分譲土地、そして、ついに夢の郊外庭付き一戸建てを取得!という「上がり」を目指す』 という 双六です。
 
 この時代の住まいは 資産形成といわれ、持家政策という経済政策の誘導で、皆が右肩上がりで双六の「上がり」を目指す。これを作った上田さんは この図を批判として提起しています。本当にみんながみんな郊外庭付き一戸建てが必要でしょうか?と。この図とともに掲載された文章は「貧しき日本の住まい」というタイトルでした。

 私が大学をでたのは1975年ころ(昭和50年頃)でした。都市計画、都市開発、社会開発 というような開発しようというよう発想が大きなテーマになっている時代(列島改造論はこの時期に田中角栄がうち上げた政策です。)、世の中は空前の開発ブーム、地価は高騰。土地成金なんていう言葉覚えていますか。 際限なく地価が上がりつづけ、際限なくお金が回り、拡大成長し儲かるような気分が充満していました。永久に上がり、回るそんなあり得ないことをあるように皆が思う。これがバブルなんですが、そういう気分の中、古いものや、自然はドンドン破壊され、大型の店舗や東京の企業が地方にも進出し、土地を買いあさり、昔ながらの町並みや地域コミュニティ、商店街や地場の産業、緑豊かな風景などが消えていっていました。

そんな中で、
 私はまちづくりや再開発事業、建築設計をする 大学の恩師の事務所に勤めました。結婚、共働き、子育ても直ぐにはじまり、保育園に入れるかどうかは大問題でした。あれから35年もたつのに今もこの問題が変わっていないことに、この国のいびつな発展も映し出されています。
「青山通りのあたりは1坪三千万で、サラリーマンが一生かかっても1坪かえない」 なんていう 話もありました。

 さて、日本中で再開発事業が計画され、新幹線や高速道路ができる。これが発展だと皆が思っていたときに、私の師はそうでない提案をし続けていました。駅前に六本木がきて欲しいという市長に、「駅前が田んぼでなにがわるい?この町の宝でしょう。」 「地域にふさわしい、この場所の記憶をつなぐまちづくり」 などなど、事務所には、そういうわけで バブル期大きな仕事はあまり来ませんでしたが、こういう師のもとにいたことで私がコレクティブに取り組む資質も養われたと思います。

 1980年代(昭和55年)にはいり、バブルが膨らむだけ膨らみ、様々な軋轢や格差がではじめ、1985年ごろ(昭和60年)から、バブルが崩壊しはじめました。ようやくイメージの資産は イメージにすぎなかった ということがあらわになりはじめました。

 街の崩壊は一気に世界恐慌のようにくるものでなく、徐々に衰退していくのです。経営が悪化した大手のスーパーや企業が、地方都市から次々撤退、再開発してできた駅前には、空きビルやだれもいない駐車場がまるで、ゴーストタウンのように残される。 それを見て、私がやっていることも、これは街づくりや再開発でなく、街壊し、地域壊しになったのだ とあらためて思いました。
そして、その土地で日々を生き、暮らしを営み、次世代につなぐ人が、生き生きと生き続けないかぎり、街も暮らしも続かないと身にしみて感じました。
このことが、コレクティブハウジングのような当事者がかかわって創り、人と人をつなぐ そういう仕組みづくりを支援したい、という原点となり 方法の模索をはじめました。
1993年(平成4年)になっていました。

 1995年(平成6年)コレクティブハウスを紹介する活動グループALCCのセミナーに 友人が誘ってくれました。そこで、初めてスウェーデンのコレクティブハウスを知りました。これは私がまさに探していたものでした。


 住む人が他の人と緩やかにつながりつつ、暮らしの場と仕組みを作り、血縁によらず、助け合え、自分らしい暮らしを創りだすこと、そういうことをもうやっている人たちがいたのです。 その当時予測されていた、日本の将来像は 少子化、高齢化、シングル化し、家族の崩壊やネットワークが切れて孤立化する暮らし、このような日本の暮らしにとって コレクティブハウスが必ず必要になると思いました。 「唯一の希望の星になる」というくらいの思いで、これからの私たちの住まいの選択肢の1つとしたいと考え、提案する活動をはじめました。今から18年前のことです。私のターニングポイントでした。
 
 では、日本でのコレクティブハウスをご紹介したいと思います。
 活動グループALCCが事業に取り組むことになりNPOコレクティブハウジング社をつくりました。わたしはALCCに参加し、更に自分は独立し、NPOの事業責任者になりました。2000年から私たちのNPOはスタートしました。
(PPTでコレクティブハウジング社の今までと コレクティブハウスを説明)

 このように、コレクティブハウスとは 住まい手が、今かかえている暮らしの課題を考えながら暮らしを創る住まいです。

 タウンコレクティブは、皆さんが住む地域でも多発する「空き家をつかって どう人とのつながりを作って暮らしつづけていけるか?」ということを、コレクティブハウスの考え方を地域に広げることで解決できないかという1つの試みです。

 前半で長々と 私たちがどういう時代の中で 住まいを考えてきたのかを思い出していただこうとしました。 私たちは、ひたすら経済発展や開発を優先する動きのなかで 持家政策といわれて、政策としての住宅づくり、資産形成と言われ 財産として住まいを取得してきたのではないでしょうか。

 双六ですが、上がりだったはずの その郊外庭付き一戸建てで、私たちは今「一人暮らしになる」、「買い物難民になる、」「孤立死する」、あるいは「空き家になる」そういう時代を迎えています。 

私たちは 『どのように生きて、そして死んでいきたいのか』、『私たちはどんな暮らしが安心で快適なのか』 ようやく、いまさら考え始めているようにも思います。 69年経って、ようやく わたしの快適な暮らし、住まいについて考えるスタートラインについたということかもしれません。」

『本当に庭付き一戸建てマイホームは あなたの暮らしに必要ですか?』  と、双六の作者が 警鐘を鳴らしていたのは 住まいが 生き方や暮らし方でなく「物」の取得の追求だったからだと思います。

 私たちに出来ることはなんでしょうか。様々な不安の中にある私たちの暮らしですが、大切なのは 身近な自分たちの暮らしから考えるということだと思います。 誰かに期待するのでなく 平均的に考えるのでなく、私の問題として、当事者として 私とあなたの日常の暮らしの些細な問題に取り組むことからはじまるのだと思います。

 私たちが変えたいと思えば変えられると 自分の意識を変えることだと思います。 そして、多様性の中で生きることを大事にすること。そのことは ひいては自分もありのままでいられる、受け止めてもらえることでもあるのだと思います。

 お金では買えない安心、誰かの役に立ったり、話ができる幸せ、そういう些細な日常こそが、個々の人の尊厳を大切にし、多様性を価値とする という事につながっています。
コレクティブハウスのくらしの提案から このような可能性は当事者としての私たちの手の中にあると感じてくださったら、嬉しいです。

みなさんが当事者として何かをやってみることが 重要なのです。